北越戦争と諏訪形の人たち


 慶応4(1868)年に戊辰戦争の局面の一つとして長岡藩(現在の新潟県長岡市)周辺地域で 行われた一連の戦闘を総称して「北越戦争」と呼んでいます。この戦いに向かう新政府軍には諏訪 形の人たちも従軍したり、助郷や伝馬の労役で参加したことは『諏訪形誌』82ページからの「一 揆と戦争・北越戦争と諏訪形」で触れたとおりです。また、北越戦争が終わった後政府軍が引き上 げていくときにも、助郷や伝馬のために諏訪形から34人の人たちが参加したことも『諏訪形誌』 83ページで触れられています。

 北越戦争に際しては、明治新政府軍から上田藩にも出兵の要請がありました。この要請に応えて、 上田藩からは藩士170人、夫卒(軍卒)220人の計390人が参戦し、そのうち、藩士10人 と夫卒3人が戦死したという記録が残っています。亡くなった夫卒はそれぞれ、御所村、曾根村、 浦野村の出身者で、御所村出身の田子忠之助は長岡川辺村の戦いで負傷し、その後亡くなったと記 録されています。

 『細川家文書』には、政府軍が引き上げていく時に、諏訪形の人たちは「稲荷山宿と青柳宿の間 の助郷と伝馬を担当した」と記録されています。「稲荷山宿」「青柳宿」は「北国脇往還(善光寺道)」 または「北国西街道」と呼ばれる街道の宿場です。この「北国脇往還(本文では以下、この呼び方に 統一します)」は塩尻市洗馬宿で木曽に向かう中山道と分かれ、稲荷山宿の北約4kmにある「篠ノ井追分」 で中山道・北国街道の追分宿(北佐久郡軽井沢町)から続く「北国街道」と合流します。

 「北国脇往還」は松本城主の小笠原秀政によって洗馬宿と麻績との間で宿駅制度が整備され、その後 稲荷山まで結ばれたことで、中山道と北国街道を結ぶ輸送路として、また、善光寺への参詣道として多 くの人々に利用されるようになりました。

 「北国脇往還」には12の宿場と5つの間の宿があり、全長は約65kmで、今でも本陣跡や路傍の 石仏などが多く残っています。このうち、諏訪形の人たちが関わった稲荷山宿から青柳宿までは約17kmで、 途中には道中最大の難所として知られる「猿ヶ馬場(さるがばんば)峠」があります。
 当時、諏訪形の人たちはどのような道を通って稲荷山宿まで行ったのでしょうか?このことについては 記録が残っていないので、以下は推論ということになります。



 上田宿から稲荷山宿までは、当時のメインストリートとも言える「北国街道」を通ると35kmほどで、 一日で歩ける距離です。諏訪形の人たちが当時、上田藩内の人たちといっしょに行動したならば北国街道経 由で稲荷山宿へ、という可能性もあるかもしれません。しかし、「川西十二ケ村」でいっしょに行動すると いうことになると、もう少し通りやすい道もありそうです。「岩鼻」には江戸時代にも通れる道があったよ うですが、現在の室賀峠を越え、千曲川の左岸を稲荷山に向かう「善光寺路(道)」を通って稲荷山に向かうと、 川を越えたり、危険な川の近くを歩いたりしなくてもすむので、安全上もかなり有利です。また、途中には 名高い「武水別(八幡)神社」もあります。

 さらには、諏訪形誌刊行委員会の北沢委員長が室賀地区の古老から「上室賀から大野田(おんた)を経由して 旧坂井村(現在の東筑摩郡坂北村)方面に抜けていく道(安坂峠)は、昔はよく使われていた」という話を聞い ていて、こちらの道を通った可能性も否定できません。上室賀の人たちと旧坂井村の人たちとの縁組みも多く あったという話もあり、室賀地区と旧坂井村とは関わりが深かったと考えられることから、上室賀から大野田を 通って麻績宿で「北国脇往還」に出て、稲荷山や青柳の宿へという経路もおおいに可能性があるところです。 現在も「ささらの湯」から少し室賀峠の方向に上がった追分には「左おみみち 右ぜんこうじみち」の標識 (比較的新しいものですが)が、室賀入組三叉路には「左山みち 右ぜんこうじみち」の標識が残っています。 また、街道沿いには馬頭観音や道標も多く見ることができて、往事の盛況を偲ばせます。



ちょっとひと休み コラム
 北越戦争や明治新政府軍の動きと上田地域との関わりで、関係者の方から次のようなエピソードをいただきま した。

 「北越戦争と諏訪形の人たち」を読んでいく中で、上田地域(特に諏訪形など川西地域)と旧坂井村(現在の 東筑摩郡筑北村)などとのつながりが、今以上に強いものだったことがわかってきました。私(話者:現在は諏 訪形在住)の祖母は旧坂井村の出身で、縁あって諏訪形に嫁いできた人です。その祖母から父(諏訪形に住んで おられた故人)が次のような話を聞いた、と話してくれました。
 子どものころに、親(話者の曾祖父母)から、「薩摩(鹿児島県)の兵隊さんが家に泊まった」という話を聞いた。 (方言が強かったためか)言葉がよくわからなかった。「とりゃねえか」という言葉は「鳥を食わせろ」と言ってい るようだったが、とても怖かった。

 いろいろなことをつきあわせて考えてみると、北越戦争に参戦して、北国脇往還を行き来していた薩摩(新政府軍) の兵士が、当時の坂井村にも宿泊していたらしいということがわかってきます。明治維新のころの大きな事件も、意外 に身近なところとつながりがあるものなのですね。

「ちょっとひと休みコラム」はここまで。本論に戻ります。


 さて、諏訪形の人たちが労役や伝馬などに携わったとされる「北国脇往還の稲荷山宿と青柳宿の間」についてです。 『細川家文書』には「御引揚二付稲荷山外四ケ宿江助郷伝馬諸入用割合帳」と書かれているため、この「四ケ宿」 は稲荷山宿、麻績宿、青柳宿のほか、稲荷山宿と麻績宿の「間の宿」である「桑原宿」を加えたものと考えられます。 ここでは、稲荷山宿から桑原宿を通り、猿ヶ馬場峠を越えて麻績宿、青柳宿までの「ウォーキング」を紹介したいと 思います。

1 稲荷山宿
 洗馬宿(塩尻市)で中山道と分かれる「北国脇往還」は、「篠ノ井追分」で追分宿(北佐久郡軽井沢町)からの「北国街道」 と合流します。稲荷山宿は、塩尻側から見ると「篠ノ井追分」の4kmほど手前にあります。「谷街道(北国脇往還)稲荷山起 点」の標識は現在の稲荷山郵便局前にあます。

 「稲荷山宿」は天正10年(1582)に上杉景勝が稲荷山城を築城したときに同時に整備されたものです。「稲荷山本陣(松 木家)跡」は「谷街道(北国脇往還)稲荷山起点」の標識からほんのわずか路地を入った場所にあります。詳しくは知らないのです が「街道に面していない本陣」というのは珍しいのではないでしょうか。『善光寺道名所図会』では「(稲荷山本陣の門は)間口9尺 (約2.7m)の四脚門」と紹介されています。この地域は弘化4年(1847)の善光寺大地震で、火災などの大きな被害を受けた 場所で、復興にも時間がかかったという記録があります。

 宿場内には『平家物語』の作者、信濃前司行長入道と同一人物とされる西仏坊(現在の東御市海野の出身とされています)に関わる碑 などもあります。また、稲荷山宿南端の三叉路には「西京街道道標」があり「右西京街道 左八幡宮道」とあります。明治初期に建てら れたもののようですが、西京は京都を意味し、東の東京に対する表現で、この時代の世の中の雰囲気を表すもののひとつとなっています。

 稲荷山の町は江戸時代末期から明治にかけて、繭や生糸、絹織物などを扱う長野県随一の商都となりました。この地で生糸輸出の先駆者 となった松源製糸の母屋と土蔵は現在「稲荷山宿蔵し館」として公開されています。稲荷山宿は平成26(2014)年に「重要伝統的建 造物群保存地域」に選定されています。また、近くには、「北信濃随一の八幡宮」といわれる「武水別神社」や「三大長谷寺」に数えられ る「金峯山長谷寺」などもあります。




2 桑原宿
 稲荷山宿から3.5kmほどで「桑原宿」に着きます。この宿は「間の宿」であり、松代藩の私宿として置かれたもので、 宿の両端に枡形を残しています。本陣は「柳澤家住宅」となっていましたが、残念ながら平成13(2001)年に取り壊さ れてしまいました。また、旧本陣向かい側の「伴月楼記念館(関家住宅)」は安政年間(1855年〜1860年)に松代 藩士によって建てられた屋敷で、佐久間象山の師、佐藤一斎が命名したものです。幕末には佐久間象山も宿泊したことが記 録されていて、現在は象山に関する資料を中心とした博物館になっています。稲荷山宿と近いためもあってか、稲荷山宿と の間で旅籠の経営を巡る争いなども記録されています。



 伴月楼記念館(左)と桑原宿全景



 なお余談ながら、雷除けの呪文「クワバラ、クワバラ」は、桑原宿で寺の井戸に落ちた雷の子を、住職が「この地には 雷を落とさない」と約束させて助けたことに由来する、という話もあります。ただし、全国的にはこの話は兵庫県三田市桑原の 欣勝寺(きんしょうじ)に伝わる伝説、という説(?)の方が勢力があるようですが。

 さて、「北国脇往還」は桑原宿を越えると、最大の難所と言われる「猿ケ馬場(さるがばんば)峠」に向かって登っていきます。


3 猿ヶ馬場峠
 桑原宿と麻績宿の間にある「猿ヶ馬場峠」は、この街道随一の難所と言われている、急な峠道です。武田信玄の配下、 馬場美濃の守によって開発整備されたことと、開発当時にはこのあたりに猿が群れをなしていたことから、この「猿ヶ馬場」 の名前がつけられたと言われています。

 桑原宿から猿ヶ馬場峠までの道のりは約5kmです。峠の標高は964m。麓の桑原宿は標高450mほどなので、かなり 急な登りになります。現在は、車なら国道403号線を通るところですが、それとは別に林道を何回も横切りながら峠に登っ ていく旧道も、よく整備されています。旧道の途中には「くつ打ち場(馬の沓を履き替えるところで、「沓掛」と同義語)」 「火打石の一里塚(杉林の中にある高さ約3mの一里塚で、片方は残念ながら、林道開発時に壊されてしまった)」「茶屋跡 (『善光寺道名所図会』にも記録されている)」「馬塚(江戸時代の村境争いに関わりが深い)」なども残されていて、歩く には楽しい道だと思います(ただし、前述のとおり、かなり急な登りではあります)。


左から「くつ打ち場」「火打ち石の茶屋跡」「一里塚」



 旧道を登り切ると聖湖です。湖のすぐ北側、国道沿いにほんのわずかばかり「猿ヶ馬場峠」の旧道跡が残されています。なお、 聖湖は自然の湖で、古くは「馬場池」「夜ケ池」と呼ばれて、灌漑に使われていたようですが、昭和中期の「聖高原開発」に伴っ て、現在のかたちになったものです。


 この「猿ヶ馬場峠(聖湖畔)」を過ぎると、今度は「麻績宿」に向かっての急な下りになります。こちら側も時々国道を横切る 旧道が残されています。



4 麻績宿
 「麻績宿」は、古くは東山道時代から「麻績駅」として記録に残っている宿場です。標高は600m前後なので、「猿ヶ馬場峠(聖湖)」 からはかなり下ることになります。

 「麻績」の地名は「麻績(麻を細く裂いてより合わせ、糸にすること、またはその職人を表す言葉)」に由来し、古代に麻績(苧環(ちょま)) をつくることを職掌とする麻績氏の部民であったの麻績部氏が居住していたことからだと考えられています。

 宿場の跡は現在の「本町」交差点の信号付近から長野市大岡に向かう道路沿いに続いています。麻績宿が正式に認められたのは慶長18年 (1613年)に葦澤孫左衛門が松本藩主小笠原秀政から問屋職を許され、翌年には伝馬役と定められてからです。その後、臼井忠兵衛家 (屋号は中橋)が本陣職を世襲するようになり、難所「猿ヶ馬場峠」の足下に位置する宿場として賑わいました。慶長18年(1613)に 57軒だった家屋も嘉永3年(1850)には240軒にまで増えていました。安政初年(1854)ころの記録では「本陣1軒、問屋2軒、 旅籠屋29軒、東西6町35間(約710m)」となっています。問屋は岩淵家(上問屋)が月の前半を、葦澤家(下問屋)が月の後半をそれ ぞれ分担していました。江戸時代末期には「瀬戸屋」も本陣を名のり、争いとなったという記録が残っています。


左から 臼井家の本陣跡と表札

  麻績宿北口と法善寺入り口の
         双体道祖神



 麻績宿からようやく平らになった道を南へ進み、姨捨山の遙拝所を過ぎて下井堀大橋を渡ると、道は再び上り坂となって「青柳宿」をめざします。
 姨捨(冠着)山遙拝所と姨捨山 遙拝所の石仏群


5 青柳宿
 青柳宿の北側入口は『善光寺道名所図会』に「善光寺街道随一の名所」と紹介されている「小切通し」「大切通し」です。 この「切通し」は天正8年(1580)、領主の青柳頼長により切り開かれ、元禄11年(1698)には「長さ十三間五尺(約25m)、 横八尺五寸(約2.6m)、高一丈(約3m)」に拡張され、その後も享保元年(1716)、明和6年(1769)、文化6年(1809)と 三回にわたって切り下げが行われました。岩面にはこの工事の「のみの痕」がはっきりと残されています。さらに、昭和30年(1955)ころ には車道にするため、さらに掘り下げられました。この拡張の時のドリルの跡が残念だ、とも地元の方が話してくれました。岩の上方には普請の 記録と馬頭観音が刻まれ、周辺には掘削した岩石で造立した大小75体ほどの石仏が安置されています。




 青柳宿は青柳氏の居城、城山を見ながら坂道を下っていく宿で、黒い冠木門と板塀に囲まれた「青柳宿本陣」が残されています。この建物は 地元の方は「御殿」と呼んでいて、以前は現在のもののほかにもう一棟あったとのことです。青柳氏は庄屋や問屋も兼ねていました。青柳氏の 居館跡、清長寺の境内には土塁や町割がよく残されていて、県の史跡に指定されています。また「里坊稲荷神社」は守り神が狐であるため、 青柳宿では犬を飼わないという不文律が守られているそうです。なお、「犬を飼わないという集落は全国で7つほどある」と岸本豊氏の 「北国街道を歩く」では紹介されています。この神社では7年に一度「狐の嫁入り行列」の祭りが行われています。享禄元年(1528)、 青柳伊勢守頼長によって開基されたと伝えられる「瀧澤山碩水禅寺」は青柳城跡(県史跡)に向かう途中にあり、青柳清長、頼長の墓所もあります。 ここから眺める北アルプスの景色はすばらしいものがあります。

 青柳宿の街道、下に向かって左側(東側)には「石垣水路」が作られています。これは、宿の各家が石垣の下に暗渠を築き、敷地内を用水として 流した、独特のものです。青柳宿を通り抜けるあたりで坂の上を振り返ると、美しい「石垣水路」の景色を見上げることができます。

 私たちが訪ねた日はちょうど祭の前日とのことで、各家の軒先に見たことのない飾り(?)がつるされていました。話を聞いた「関戸屋」さんの 女性によると「神社でお祓いをしてもらって各家が玄関に飾るのだ」とのこと。例年、この祭には竹筒の中に蝋燭をともして、幻想的な景色になる のだけれど、今年はコロナの影響で…と話してくれました。


 JR篠ノ井線の坂北駅は青柳宿から700mほどの場所にあります。今回のウォーキングはこの青柳宿(坂北駅)がゴールとなります。 ここまで稲荷山宿から約18km。現代の私たちにとっては結構な長さです。







参考文献 
岸本 豊:北国街道を歩く(信濃毎日新聞社)
五街道ウォーク事務局:五街道ウォーク(webページ)
  街道歩き倶楽部:街道歩きの旅(webページ)
麻績村ホームページ:(webページ)
大辞泉